繊細と神経質の間

禅 ZEN

自分についての話だよ

どちらかといえばきっと繊細

でも自分を「繊細さん」とも言い切れない

図太いところもあるし、みんなが実は気にするようなことに対して鈍感なところもあったりしてさ

それはただ単に「ズレてる」だけというのだろうか

大雑把だし、どーでもえーやんで笑い飛ばしてしまうような豪快さもあったりする

豪快って自分で言うのはなんか違うような気もするが…

でも、みんなが気づいていなさそうなことを気づいているような「ザ・繊細」みたいな一面もあったりしてさ

そういう繊細さんもあるんかしらね

繊細っていう言葉からの響きがか弱い感じしちゃうのだけど、そういうことでもないんだろうな

わたし、決してか弱くはないんだ

むしろ、まぁまぁ神経は図太い気がしている

だから「繊細さん」「HSP」とは言い切れないでいる「わりと繊細さんかもね」程度の私

繊細と神経質ってどこまでどう違うのかよくわからないんだけど

自分を神経質なんだな、と感じる事はたまにある

ただその神経質は「モノ」に対して発動する事はそんなになくて

主に「人」に対して発動している

でも、表向きの社会でイチイチ気にしていたら生きていけないことは山ほどある

だから、気にしないようにする特訓というのか、分かりやすくいうと「スルースキル」というものを身につける努力を人知らず涙ぐましくしていたりする

人に接する上での心構えや技術というものは、長い目で見るとある程度まで地道に努力の積み重ねで変わっていくこともある、とわたしは思っていて努力の必要性はあると思う

要は子供の頃に親や先生から教えてもらうマナーやモラルのようなもの

残念ながら親から教えてもらえなかったとしても、自分で気づけば治せる可能性がある部分

あの人、大人になったね、丸くなったね、と言われるような表面上の人あたりの部分だ

でも、それと同時に生まれ持った気質や特性のようなものは努力で変えられないものがあることも事実だとも思っている

そしてそれに対しては変えることを望んで辛い努力をするのではなくて

うまく付き合っていくことを選び、できるだけ自分と人を苦しめない方向に持っていくことが大事なんだと思う

作品とかモノとかをストイックに創り上げようとしたら、評価や否定から生まれるものというのは沢山あるから一概には言えないけれど

人に対しては否定から始まる良いものってそんなに無い気がする

だから何が言いたいかというと、変えられるもの、変えられないもの、を見極める力を養うこと

自分と人を大切にしながら、よりよくあるためにはどうしたらいいのかを考える力をつけること

人とのコミニュケーションを放棄しないこと

ってやっぱり大事なんだなぁと改めて思うこの頃

あ、神経質な私の印象がついちゃうと近寄りがたい人って思われちゃうかもしれんけど

わたし、基本的な姿勢として人に対してはおおらかで朗らかな方ですたぶん

矛盾しているようだけど、ざっくばらんでウェルカムだったりするところもある

でもその奥底で相手やその場の雰囲気を敏感にキャッチしている自分がいたりする

きっと誰しもがそういう部分て大なり小なり持っているのだとは思うけれど

自分や自分の大事な人やモノ達に対して害があるなーとか攻撃性を感じてしまう時にだけ、こちらもピリピリムードとか愛想とかでバリアを調整します

感じ悪いとか気にしない

そうやって相手によって態勢を調整するのは生き物として生き抜く術であって当たり前だと思う

その辺りを自分でコントロールができない方が危ないんだぞ

最後に、わたしが出会った素敵な言葉を

変えられるものを変える勇気を、変えられないものを受け入れる冷静さを、そして両者を識別する知恵を与えたまえ

〜ニーバーの祈り〜

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