報われぬ努力と鏡の法則

禅 ZEN

過去の経験から思うこと

弱者に強く出るタイプの残念な人間に威張られてしまう時のわたしは大抵謙虚にしすぎていた節がある

正確に表現すると謙虚にするように努めていた時

つまりナチュラルに謙虚ではなかったということ

その違いは周囲の反応や関係性に表れてくるのだろうと

心理学や精神世界やらを総動員して深ーーく掘り下げたら

おそらくそのわたしの謙虚さは似非で

謙虚にしなきゃ生意気だと怒られるのではないかという子供の頃のトラウマ的な恐れが発動しており

その奥底の我慢している恐れや怒りが投影として相手のイライラを呼んで目の前で鏡として噴出しているのかもしれず

どちらにしても矢印は自分に向いてるから、自己中心という面ではお互い様

深く深く深海まで潜っていくと

(あ、、ついてこれてますかー?)

鏡の法則というものがある

わたしもその全てを理解しているわけではなく盲信はしていないのだが、今回の件は鏡の法則にもおそらく当てはまる

やや乱暴にまとめてしまうと、似非謙虚は見下しとセット

似非だから無意識の奥底に眠る本心は違うところにある

ただ、自分でそこを疑う(つまり似非に気づく)のはなかなか難しい

何かに気づく時というのは大抵自分が痛みを感じるような出来事を通して反省する時に多い

順調な時、順風満帆な時に何のきっかけもなく反省できる人はなかなかいない

わたしのその似非謙虚に気づいた経験は、一度や二度の何かのきっかけだけではなく、それプラス度重なる目の前に起きる現象の積み重ねだったように思う

元来のわたしの性格は、決して控えめでもなく、謙虚でもない

出しゃばりではないが、生意気で態度がでかい

態度がでかい=太々しい

と、ドヤって得意気にいうことではないのだが、よう言われてきたのでこれは紛れもない事実として認識はしている

それはきっと生まれ持った気質や、生まれ育った環境などの組み合わせなどによるものや、単純に外見が与える影響もあるだろうと思う

で、子供時代はそれで苦労することといえば、先輩(器の小さい人に限定)から目をつけられる、先生(器の小さい人に限定される)から目をつけられる、ことだった

まとめると、主に年上や目上の「器の小さい人」からの圧力

それ以外はあまり困ったことはなかった

優しくしてくれる先輩や先生ももちろんいたし、気に入ってくれる目上の人はとても気に入ってくれたような気がする

同級生や年下から舐められることはあまりなく、イジメなどにはほぼ無縁でなんだかんだ楽しく学生時代を過ごせてきた

大人になってから振り返れば、もしかしたら同級生や後輩でもわたしのことを陰で嫌いな人間や苦手な人間はいたのかもしれないし、態度がでかくハッキリ堂々としているがゆえに知らぬ間に誰かを不快にさせていたことはあったかもしれない

それはまぁ今となってもあるかもしれないけれど

大人になってからの人間関係は子供時代よりもう少し複雑で、様々な利害関係も絡むと大体みな計算高くもなっている

しかし様々な経験を重ねても尚、今のわたしの境地としてはやはりある一定数から好かれないのはどうやっても仕方なく、今となってはもうそれを折込済みで生きている感じだ

社会に出てから大人になり中年となった今、人間関係には「相性」という、自分や相手の努力とはまた別の次元のものが存在することにも気づいた

そしてそれは残酷なことに、努力や根性や愛などでカバーしきれない限界がある

それを愛や努力でカバーできると信じている人やそうしている人はいるのかもしれないし、それを否定はしない

ただわたしはそう、という話

長くなったけれども、それでわたしは一時期、いやけっこう長い間

変わる努力を無闇に頑張っていた

粘り強いといえば聞こえはいいが諦めが悪いアホともいえるので、努力の限界を知るまで、己のダメさを認めて割り切るまでにけっこうな時間を要した

態度がでかい自分を省み、生意気な自分を省み

手っ取り早く変えられる外見から、できるだけ控えめに見えるようなナチュラルメイクを追求したり、服装もナチュラル(というより地味目)の方向にしてみたり、あらゆる角度から研究してできることを片っ端からやっていた

態度を小さくし、生意気さを出さぬよう謙虚に、謙虚に、低姿勢に、頭を低く垂れる

自分を省みることは必要だが、努力の方向性は間違えていたと思う

その時期は人生の暗黒期ともいえるくらい悪縁も続いた

目の前にどんな失礼なアホが現われようとも、不躾な⚪︎カが現われようとも、全ての人間に等しく謙虚に努め、努め、努めまくった

その結果どうなったか?

ある一定の層の人間からイジメられやすいというわたしのデータが出来上がった(アホか

人体実験による統計学だ

そのある一定の層とは、子供時代にわたしを生意気だと目をつけてきた層と重なる

前述した「器の小さい人間」だ

そしてピュアで可愛らしかった子供の頃のわたしのデータ上には上がってこなかった辛辣な分析を付け加えるなら、加えて「⚪︎カ」←言葉が汚いのでお察しを…

社会に出て大人になってからも、わたしに対する目上の人からの評価は子供の頃から変わらないことにも気づいた

気に入ってくれる人はとても可愛がってくれる

そしてたぶん、わたしを可愛がってくれる方や優しくしてくれる方というのは大きな器の持ち主で

わたしをイジメてこようとする人は小さな器の持ち主なのだという単純な方程式が成り立つこともよくわかった

そしてその長くしんどい実験の末、そこに対してわたしが自分を変える必要はないのだというシンプルな解まで辿り着いた

相手がわたしの生意気さや態度のデカさに腹が立ったとしても

それはダミーであり

その人自身の根本的な劣等感が拭えない限り、誰が相手になろうと変わることはない

相手にとったらわかりやすくぶつけられる捌け口があれば誰でもいいわけで

だから、わたしはその人のために自分を変える努力をなんて一切する必要はなく(むしろしたらアカンよね)

ただし最後にも書いているけれど、開き直るのとはまたちょっと違ってもう少し丁寧に深く掘り下げないといけないことではある

浅い理解で開き直るだけではきっと似非の自己肯定感を盲信する痛い人間になってしまう恐れがある

ただいえるのは、どんなに頑張っても報われることない努力は人間を病ませるだけで

生育環境で作られたその人の闇に立ち向かう努力をしたとて、愛情やパワーが底なし沼に吸い取られる一方で、一方的で報われることのない努力や愛情はやがて枯渇してしまうのだろうと思う

だから、自分のめちゃくちゃ大事な人だったり子供だったり無限に愛情を注ぎ続けられるような関係性を築いている人間相手でもなければ

なるべく関わりを最小限に抑えて

お互いに心がザワつかない距離まで離れて別々の次元で暮らすのがきっと正解だ

仕方なく交わらなければならない時は

和して同ぜず

↑これがまたムズイのだよねぇ

とまあ、長くなったけれどもとりあえずわたし自身の対策としては似非謙虚をやめること、自分本来を生きること、に行き着いたというわけです

長所と短所は裏表だし、そもそも完璧な人間なんておらんのですよね

うまく使えば自分の長所は武器にもなり人を支える力にもなり、そうやって人と人は凸凹を補い合いながら生きていくのに

短所ばかり見てそれをなくしたいなんて、なんて傲慢な考えだったのだろうと今は思っております

何もかもがいいとこどりなんて、無理なのにね

いいことも悪いこともひっくるめて関係を微調整しながら共存していく

案外そう覚悟して生きてからの方が、他人のイヤなところにも少しは寛容になれてきたり、他人の素敵なところを純粋な感情で敬えたりして

似非、ではない謙虚さってきっとそういう自然体でいる時の方が感じやすいのかもしれないと、わたしは思います

開き直るのとはまたちょっと違って、そういう自分と共に生きる覚悟とでもいいますか

生意気なら生意気なりに、口だけ人間で終わらぬよう行動で証明する努力とか

態度がでかいならでかいなりに、常に正々堂々としていられるように他人を欺かない、卑怯な誘惑に負けない努力、信頼に値する態度を貫く努力とか

たとえ態度がでかくても生意気でも、人様への配慮は欠かせないのでそこは充分に気をつけて人一倍丁寧さを心がけるとか

そういう地道な努力を重ねていくことによって、似非謙虚や似非ポジティブなどの卑屈な自己肯定感でも自己否定感でもない、

等身大の自分(と他人)のあるがままを受け入れられていくのではないかと思う

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