estetica, 美学

誰かの正解を目指さない

自然体でカッコよく、美しく生きる

こだわりを持ち、囚われを手放す

ヒトとモノの美しさとバランス

ファッション、インテリア、カラーにおける美しさを表現する時、黄金比であったりセンスであったりと、感覚的な世界と論理的な世界が混在する。

センスは感覚的なものとして扱われやすい世界だけれども、その美しさはある程度まで数値化もされていて可視化ができる。

そして、ヒトが織りなすセンスの良し悪しとはまた別に、自然界にある規則に則ってコーディネートされたモノは美しい。

モノには元々の美しさが際立つ配置や配色、バランスというものがあるように

人にも元々生まれ持った美しさが引き立つバランスというのがある。

自然界に存在する黄金比や「1/f揺らぎ」は、人の中にも存在しているのだろうと思う。

誰かの正解を目指さない

人にはその人の心に合わせた独特な世界が存在する。

しかしそれについて分かりやすい一定の指標はなく、数値化もできない。

誰かの正解が違う誰かに当てはまるわけではない。

いや、マーケティングの観点からしたら、ある程度の「傾向」のようなものはあるだろう。

こういう世帯、年代にはこういうインテリア、ファッションがウケやすい、などのように。

ただ、それと「心地よさ」という心の世界はまた別物でもあったりする。

周りから教育されてきた価値観や周りの期待に応えたいという希望、周りに恥ずかしくないという世間体に従って作る「外側」

それは社会性としてある程度までは必要なものでもある。

しかし同時に、時に人を窮屈にさせることもある。

人も家もモデルのような完成形は芸術作品のようで美しく、価値や評価も高くなる。

憧れること、目指すことは悪くないけれど、元々違うものを同じ型に模倣的に矯正していく作業は「豊かさ」や主体性を感じにくくなってしまうことがある。

外側だけで言えば、完成された美しさに近づくように「型」を模倣することは出来ても

人はみなそれぞれに元々生まれ持った「芯」の部分の美しさや個性がある。

禅問答のようになってしまうが、人は元々は完全であり、不完全でもある。

それが「人」という摩訶不思議な生き物だ。

人はみな唯一無二の存在で、個性があるから面白く、個性があるから美しい。

そして、個性を極めていくほど人間関係は面白くなる。

揺らぎ、心地よさ 

人の個性になる「芯」は変わらないが、覆っているものは自由自在に変化する。

時と共に、気分と共に、出来事と共に、関わる人達と共に、移りゆく空のように様々な形に変化し続ける。

頑なに固定せずに、つまり囚われずに。

その「揺らぎ」を大切にしながら、その時その時の自分に合うモノを選んでいく暮らしには その人らしい心地よさや魅力が宿るのだろう。

そうやってヒトとモノの調和がとれている時、主体性が宿った時、心地よさを感じている時に人は自然体になり、より洗練されていくほどにその人独自の美しさ、カッコよさが滲み出る。

自然体、禅

規則的な中にも不規則な揺らぎが混在している自然界の美しさ。

揺らぎには、自由という余白がある。

その自然界の揺らぎの中には「人」もいる。

洗練されているけど近寄りがたくない、抜け感のあるスタイル。いわゆる自然体。

自然体とは、その人の「生き方」や日頃の「物事に対する姿勢」が反映されていく滋味深いものだ。

内面から出る人間味だったり「その人らしさ」という「素材そのものの味」が肝となる。

彩り、スパイス、豊かさ

たとえば「人」という存在を料理の素材に見立てたとする。

塩味だけのシンプルな味付けがベストな時もあれば、

その他の調味料が素材とマッチすることもある。

スパイスは素材をより豊かに引き出す。

人はその時のコンディションによっていかようにも変化する。

人間も自然の生物だ。

気分が変わったり、年月と共に好みが変化したり。

季節や天候によって気持ちに些細な変化があったりする。

それはとても自然なこと。

変化を恐れず、自分の心に無理強いをせず、季節の変化や気分の波や出来事をも受容しながら、日々暮らす。

そんな揺らぎこそが、日々の暮らしを楽しく彩ってくれる。

豊かさ、ってそういうことなんじゃないかとわたしは感じている。

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